18.上州屋旅館のだるまの絵 [蒼ざめた微笑]
右に赤城山(あかぎやま)、左に榛名山(はるなさん)が見えて来た。
風がやけに強かった。上州名物のからっ風というものだろう。
突然、五年前の記憶がよみがえった。五年前の秋、赤城山に行った事があった。隣には女が乗っていた。私の妻だった。裏街道を行くと赤城神社があり、その奥の細道を歩いて行くと滝があった。私たちは滝まで歩いた。滝の側に国定忠次が隠れていたという岩屋があった。私たちはその岩屋の前に座って、見事な紅葉を眺めながら、妻が作った弁当を食べた。週末を利用したささやかな旅行だった。その旅行から半月後、妻は突然、消えてしまった。私は狂ったように妻の行方を追った。毎日、酒浸りの生活が続いた。結局、妻を見つける事はできなかった。一年後、妻から手紙が届いた。海外からの手紙だった。手紙には、捜さないでくれと書いてあるだけで、消えた理由は書いてなかった。妻を忘れるために、私はまた、酒を浴びなければならなかった。いまわしい思い出を振り払うように、私はラジオのボリュームを上げた。
二時半頃、高崎駅に着いた。隆二の泊まっている旅館に電話をした。隆二は留守だった。場所を聞くと駅の側だという。
ジープを駅の駐車場に置いて、街をぶらついた。とんかつ屋から流れて来る匂いと暖簾に描いてある、ひょうきんな豚の絵に誘われて、まず、腹ごしらえをした。
上州屋旅館はすぐに分かった。確かに上州と呼ばれていた頃から建っていた旅館らしい。古ぼけた屋根にも広い玄関にも太い柱にも、歴史が染み込んでいる。玄関から声を掛けると威勢のいい女将さんが顔を出した。
隆二の事を聞いたが隆二はまだ帰っていなかった。行き先も分からないと言う。私は休憩という事で、隆二の隣の部屋で待たせてもらう事にした。
案内された部屋は八畳一間で中央に電気ごたつが置いてあった。床の間には鶴の置物とだるまの絵の描いてある色紙が飾ってある。とぼけた顔のだるまの上に、個性の強い味のある字で七転八起(ななころびやおき)と書き添えてあった。
女将さんはお茶とお茶菓子を持って来て、この街の観光案内をしてから、ごゆっくりと言って去って行った。女将さんの言う通り、ごゆっくりしたいがそうもいかない。
私はこたつに入ってお茶を飲みながら、テレビを回してみた。面白い番組はなかった。退屈な番組を横になって見ているうちに、つい、うとうとと眠ってしまった。
目を開けると部屋の入口の所に男が立っていた。本屋の主人の高田が言っていたような薄汚い格好ではなかった。セーターの上にツイードのジャケットを着て、真新しいジーンズをはいていた。
時計を見ると四時を過ぎていた。一時間近く眠ってしまったようだ。
「藤沢ですが、何か、御用ですか?」と男は言った。
私は起き上がり、座り直して、
「あなたのお父さんに頼まれまして、ここに来ました」と言った。
「親父が?」と隆二は首を傾げた。
その顔はどことなく、静斎に似ているような気がした。
「まあ、どうぞ、入って下さい」
「親父が、どうして、俺がここにいる事を知ってるんです?」と言いながら、隆二は部屋に入って来た。
「親父さんはまだ、知りません」
「親父が俺を捜してるんですか?」
隆二は座ると不思議そうな顔をして私を見た。私は首を振った。
「親父さんが捜しているのは紀子さんです」
「紀子?」
「ええ。隆二さんと会ってから、どこに行ったのか分からなくなってしまいました」
「紀子が行方不明?」
私はうなづいた。
「ところで、あなたは何者なんです?」
「私は探偵です。日向と言います」
「探偵? 親父に雇われたんですか?」
「そういう事です」
「紀子に何かあったのですか?」
「分かりません。連絡がないので親父さんは心配しています。ただ、心配してるのは親父さんだけです。紀子さんと親しい人たちは皆、どこかで曲作りに熱中してるに違いない。そのうち、帰って来るだろうと言ってます」
「紀子は黙って、うちを出る事がよくあったんですか?」
「そうらしいです」
「だろうな。五年振りに紀子に会って、俺はびっくりしましたよ。あんなに変わってたなんて想像もしてませんでした。五年前のあいつはまだ、ガキでした。女のくせに剣道なんかやっていて、日に焼けて顔なんか真っ黒だった。喫茶店で待ち合わせしたんだけど、俺には全然、分からなかった。話を聞いて、音楽の事しか頭にないって事が分かりましたよ。あいつは音楽のためなら何でもやりそうだ。回りの事など一々、気にしやしないだろう」
「ええ、多分、新しい曲作りのために、どこかに行ったのだと思います。そのうち、帰って来るかもしれません。でも、紀子さんを捜すのが、今の私の仕事なのです」
「それで、こんな所まで、わざわざ、来たんですか?」
私はうなづいた。
「俺の事はどうやって調べたんです? 紀子以外に俺が帰って来た事を知ってる者はいないはずです」
「それは偶然なのです。あなたは山崎孝志を知ってますね?」
「ええ、知ってますが」
「私は彼からあなたの事を聞いたのです。私もスペインにいた事がありましてね。奴とはよく遊びましたよ。私が日本に帰った後、あなたがスペインに行って彼と会ったらしい」
「本当ですか?」
「ええ」
「山崎には夕べ、電話しました。そういえば、あいつ、スペインの頃の先輩から俺の親父の事を聞いたとか言ってました。その先輩というのはあなただったのですか?」
「そうです」
「というとあなたも元絵画き?」
私はうなづいた。
隆二は足を崩すとこたつの中に入った。
「日向さんて言いましたね。そういえば、マドリにいた頃、名前は聞いた事ありますよ」
「そうですか。あの頃は馬鹿をやってましたからね」
隆二はスペインの事を話し始めた。私も昔を思い出して、あれこれと聞いた。私が知っている連中はもう、スペインには誰もいないようだった。山崎以外に二人の共通の日本人はいなかった。
隆二は初めパリに行き、それから三ケ月位、ヨーロッパを旅してから、スペインのマドリッドに落ち着いた。マドリッドでは道端でアクセサリーを売りながら絵を描いていた。マドリッドに二年余りいて、その後、絵画き仲間とスペインの田舎に行って、一年近く暮らし、また、パリに戻って来た。パリでは似顔絵を描いたり、日本風の絵を描いて売ったりして、その日暮らしをしていたが、最後には日本レストランで働いて、金を溜めて日本に帰って来たという。
話が一段落すると私は話を今に戻して、
「お子さんがいたそうですね?」と聞いた。
「ええ。びっくりしましたよ」
隆二は微かに笑った。
「由起子さんていう人ですか?」
「えっ!」と隆二は目を丸くした。
「そこまで調べてるんですか?」
「本屋の旦那から聞きました」
「そうですか‥‥‥あいつにはまだ、知らせてなかったな。子供の事を聞いたら、あいつ、腰抜かすかもしれない」
私はポケットからしわくちゃになったタバコを出して彼に勧めた。
「やめたんです」と彼は首を振った。
私は自分のタバコに火を点けた。
「紀子さんの事ですけど、日曜の夜、別れてからは会ってないのですか?」
「ええ、会ってません。俺もちょっと気になって、次の日、電話してみたけど誰もでなかった。その後、俺はこっちに来て、紀子の事どころじゃなくなって‥‥‥」
「いつ、こっちに来たんですか?」
「一昨日です」
「一昨日というと火曜日ですか?」
「そうです。日曜の午後、紀子と会って、『オフィーリア』に行って演奏を聞きました。その時、俺は高田のうちに厄介になっていて、その夜も泊めてもらいました。次の日、高田と一緒に上野でやってる『歌麿展』を見てから山崎を訪ねたんです。山崎がスペインの仲間たちを呼んで、朝方まで飲んでいました。その時、山崎は日向さんにも電話をいれたはずです。でも、日向さんは捕まらなかった。仕事だったんですか?」
「ええ、つまらない仕事です」と私は答えた。
事実はその夜、私は女子大生たちとデュエットしていたのだった。冬子の誘いを断って、早く、自宅に帰っていれば、わざわざ、高崎まで来る必要はなかったかもしれない。だが、その時はまだ、紀子捜しの依頼はなかった。
「そして、次の日、火曜日にこっちに来たんです」
隆二はテレビを見ながら話していた。テレビでは再放送の『大岡越前』をやっていた。私はタバコを消すと、お茶を二つ入れた。
「紀子さんに何を話したんですか?」
隆二は私の方を見ると、
「紀子の本当のお袋の事です」と言った。
「あなたは学生の頃、橋田流斎が好きになって、流斎の故郷を訪ねましたね?」
「そんな事まで知ってるんですか?」
「ええ。あなたはその後、変わってしまった。あなただけではありません。静斎さんも紀子さんのお母さんと付き合う前、おかしかったようです。この二つに何か共通点があるような気がするのです。そして、今度は紀子さんがいなくなってしまった」
隆二はお茶を飲んだ。飲んだ後、茶碗の中をしばらく見つめていた。顔を上げて、口髭を撫でながら、「日向さん」と言った。
「紀子の事、お願いします」
「話してくれますね?」
隆二はうなづいた。
「まず、始めから話しましょう。今から四十年以上も前の事です。長野県の山の中のある村から兄と妹が東京に出て来ました。流斎と俺のお袋です。親に勘当(かんどう)されたんです。東京に出て来た二人は三浦硯山という絵画きに拾われて、しばらく、世話になっていました。そして、硯山の弟子だった俺の親父は流斎の妹と結婚しました。親父とお袋はうまくいっていたらしいけど、俺が生まれた頃から親父の生活が荒れて来たんです。俺の面倒なんか、ほとんど、見なかったらしい‥‥‥親父は俺が二歳の時、紀子のお袋に会いました。うちにも帰って来ないで紀子のお袋の所にいました。そして、次の年、紀子が生まれました。紀子が生まれてから親父は紀子のお袋のために店を出しました。『オフィーリア』です。その店に流斎と同郷だった古山靖が出入りするようになるんです。古山靖は流斎が勘当された理由を知ってたらしい。当時、三流の雑誌記者だった古山は、その事を利用して流斎にうまく取り入ったようです。それだけでなく、古山は酔った拍子に、その事を紀子のお袋に喋ってしまったんです。紀子のお袋には付きまとっていたヤクザがいました。そいつが紀子のお袋をゆすっていました。紀子のお袋は俺の親父に相談するわけにいかないので、古山から聞いた話で流斎を脅して、金を受け取ったらしい。そして、その金をヤクザに渡しました。そんな事が何回あったのか分かりませんが、それから、しばらくして、紀子のお袋は店で殺されました‥‥‥犯人は捕まりませんでした。そして、一月半後に流斎が海に飛び込んで自殺しました‥‥‥犯人は紀子のお袋をゆすっていたヤクザか、流斎が昔の事を知られて殺したのか、あるいは、まったく関係のない通り掛かりのチンピラだったのか、もう二十年も前の事です。本当の事は分からないでしょう」
隆二は自分の手を眺めながら話していた。彼の手はカサカサに荒れていた。
「そう紀子さんにも話したのですか?」
「ええ」
「ヤクザは犯人じゃなかったらしい」
「本当ですか?」
隆二は手の平から目を上げて私を見た。
「親父さんがそう言っていました」
「そうですか‥‥‥」
「流斎も犯人じゃないらしい。紀子さんのお袋さんが殺された時、流斎は三浦硯山先生と一緒にいたそうです」
「親父がそう言ったのですか?」
私はうなづいた。
「嘘です。親父は流斎を庇ってるんだ」
「自分の好きな女を殺されて、犯人を庇う必要があるのか?」
「そうか‥‥‥」
彼は聞き取れないような低い声で言った。顔をしかめて右手を握り、左の手の平をたたいていた。
「そうか、流斎じゃなかったのか‥‥‥」
彼は静かな声で言った。
「俺は流斎が殺したんだと思っていた。そして、自殺した。それはそれで仕方のない事、避ける事のできない事だと思っていた‥‥‥そうか、やっぱり、流斎は人殺しじゃなかったんだな‥‥‥」
私はうなづいた。
彼は天井を見上げてから床の間のだるまの絵を見つめた。
「七転び八起きか‥‥‥」と言いながら、かすかに笑った。
流斎が殺人犯でなくてよかったという笑いではなく、流斎が殺人犯だと信じていた自分に対する自嘲の笑いのようだった。
「流斎が勘当された理由というのは何だったのです?」
「それは分かりません。俺が流斎の村を訪ねた時、そんな事を知ってる者は誰もいなかったんです」
「すると、今、その事を知ってるのは、あなたのお母さんと古山靖さんだけという事ですか? 親父さんは知ってるんだろうか?」
「知ってるかもしれません。親父も古山の世話を随分とやってたみたいだからな」
「紀子さんはその事を親父さんには聞かなかった。という事は、お母さんか古山さんに聞きに行ったのかもしれない。二人ともあの時は湯沢にいた」
「俺もそう思いました。湯沢に電話したかったけど電話番号を知らないんです。湯沢の別荘は俺が日本を出てから建てたんですよ」
「紀子さんは湯沢には行かなかったようです。あなたのお母さんも、そんな事は一言も言わなかった。となると、紀子さんはどこに行ったんだろう?」
「分かりません」
「流斎の故郷に行ったんじゃありませんか?」
「いえ、紀子には村の名前までは教えてません」
「そうですか‥‥‥」
私はタバコをくわえて考えた。火は点けなかった。
隆二はテレビを見ていた。五年間も海外にいたので、時代劇が懐かしいのだろう。
「話は変わりますが、上原和雄さんはあなたの友達ですよね?」
「上原和雄か‥‥‥懐かしいな。奴はまだ、親父のとこで絵をやってるんですか?」
「いえ、絵をやめて、今は写真をやってるようです」
「へえ、写真に転向ですか。あの頃は真面目に絵をやってたのにな‥‥‥奴がどうかしたんですか?」
「彼も湯沢に行ってたんです。もし、紀子さんが月曜日に湯沢に行ったとすると、その日、彼が一人で留守番してたらしい。みんな、スキーに行ってて、スキーから帰って来ると上原君はいなかったそうだ。急に仕事が入ってヨーロッパに行ったらしいけど、もし、紀子さんが湯沢に行ったのなら、彼と会った事は考えられる。上原君が紀子さんのお母さんの事について、何かを知ってるとは考えられませんか?」
「まさか、あいつが、そんな事まで知ってるわけないでしょう」
「だろうな。どんな男なんです、上原っていうのは?」
「くそ真面目な奴でしたよ。親父の所に来ちゃあ色々と教えてもらってたようだった。奴が親父を紹介してくれって言うから紹介してやったけど、俺とはあまり気が合わなかった。何となく、堅苦しいんだな。紀子の事が好きだったようだけど、紀子も相手にしなかったんじゃないのかな」
「そうらしい」
私はくわえていたタバコに火を点けた。
「最後に聞きたいんだけど、どうして、うちを出たんです?」
「親父さ、親父だよ」と彼はタバコの煙を見ながら言った。
「俺が子供の頃、親父はまともにうちにいた事はなかったんだ。お袋が一人で兄貴と俺を育ててたんだ。お袋はたまに親父が帰って来ても文句さえ言わなかった。俺はお袋が可哀想でしかたなかった。俺は親父を憎んでいたんです‥‥‥俺が十一になるまで親父はうちに寄り付かなかった。紀子でさえお袋に預けたまま、一人で海外に行っちまったんだ。お袋は働きながら、一人で三人の子供の面倒をみていた‥‥‥でも、もう、そんな事はどうでもいいんだ。とにかく、あのうちから出たかったんです。それだけです‥‥‥親父の事だって、今ではもう憎んじゃいない‥‥‥」
「そうだったのか‥‥‥あんたはまだ知らないだろうけど、もう一人、妹がいるんだよ」
「何だって!」
隆二は口を開けたまま、私を見ていた。
「親父、あの年で、また、どこかに子供を作ったのか?」
「いや、もう二十歳になる娘だ。美大で絵をやっている」
「へえ」と彼は笑った。
「日本を五年も離れていると色んな事が起こるもんだな。女房と子供と妹が一遍にできたわけだ‥‥‥その妹は何ていう名前です?」
「冬子」
「冬子か‥‥‥綺麗ですか?」
「まあ、美人だな」
「親父は面食いだからな」
「その親父さん、あんたが絵を続けてるって言ったら、目に涙を溜てたよ」
「親父が‥‥‥」
「そろそろ、うちに帰ってもいいんじゃないのか?」
「分かってます。うちに帰るつもりで日本に帰って来たんです。でも、ちょっと敷居が高くてね。なかなか帰れなかったんです。こっちの問題が片付いたら、子供と由起子を連れて帰るつもりです」
私はタバコを灰皿で揉み消した。
「お袋に喜んでもらいたい」と隆二はしみじみと言った。
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