20.エスプレッソをもう一杯 [蒼ざめた微笑]
携帯電話で古山靖と話をした。
紀子は湯沢には来なかったと言った。流斎が田舎を出た理由を聞いてみた。声の調子も変えずに、そんな事は知らない。何かあったんだろうが、そんな古い事は忘れてしまったと答えた。そして、声の調子を変えて、馴れ馴れしく、また、酒を飲みに来いと誘った。私は、そのうち御馳走になりに行くと言って電話を切った。
ジープの窓から顔を出して、私は月を見上げた。いくらか欠けている丸い月が半分、雲に隠れて寒そうに浮かんでいた。
「流斎の秘密とは一体、何なんだ?」と聞いてみた。
月は答えてくれなかった。誰も答えはしないだろう。亡くなった人間の古傷は静かに眠らせておくものだ。
大衆食堂で腹ごしらえをしてから、『オフィーリア』に向かった。
丁度、平野雅彦が演奏している所だった。テーブルは七割近く埋まっていたが、カウンターには二人しかいなかった。相変わらず、バーテンは忙しそうに働いていた。
私はカウンターの席に腰を下ろした。疲れていた。仕事なんかやめて酒を飲みたい気分だった。しかし、やらなければならない仕事があった。それをやりとげれば、ひろみと一緒にゆっくりとコニャックが飲める。ゆっくりと長い夜を楽しめる。私はじっと我慢して、エスプレッソを注文した。
曲が終わり、客たちが拍手と喚声をステージに浴びせた。バーテンが私の前に音もなくエスプレッソを置いた。
今の曲が最後だったらしく、雅彦は軽く頭を下げてステージから消えた。他のメンバーも消えた。音楽も消えた。ステージを照らしていたスポットライトも消えた。客たちの拍手も声も消えた。一瞬、何もかも消えて静まり返った。私の心の中もポッカリと穴があいたように虚しくなった。
やがて、スピーカーから懐かしい映画音楽が流れ出し、客たちの話し声が聞こえ出した。
私はエスプレッソをゆっくりと味わいながら飲んだ。映画音楽は『ドクトル・ジバゴ』のラーラのテーマだった。私が生まれた頃の映画だった。勿論、私はリバイバルで見た。ロシアの冬の情景と主演のジュリー・クリスティの顔が浮かんで来た。ジュリー・クリスティの顔が知らないうちに、ひろみの顔と重なっていた。
いつの間にか、隣に赤毛のウェイトレスが何も言わず、ちょこんと立っていた。
「この曲、いいと思わないかい?」
私は彼女に聞いた。
彼女は音楽を聴いていなかった。少し、耳を澄ましてから、「ええ、いい曲です」と言った。
彼女はカウンターに寄り掛かるように、反対向きに私の隣に腰掛けた。そして、ただ、何となく、私に笑いかけた。
「藤沢淳一さんに会いました?」と彼女は言った。
「いや、彼は今、山の中だよ。春にならないと降りて来ないらしい」
「熊さんみたい。そんなとこでお仕事してるんですか?」
「結構な身分さ。誰にも邪魔されずに、仕事に熱中してるんだろ。ところで、彼は有名なシナリオライターなのか?」
「お芝居の方では有名ですよ。彼、前はお芝居の脚本を書いてたの。『雨を愛した女』で成功したんです。映画の方は最近ですよ。今度が二作目かな‥‥‥今、忙しいから、また、後でね、探偵のお兄さん」
彼女は去って行った。彼女は私の身分を知っていた。マスターから聞いたのだろう。そんな事はどうでもよかった。それよりも『雨を愛した女』で、私はある事を思い出した。
その芝居の主演女優が自殺して、藤沢淳一と関係があったのではと噂された事があった。確か、三年前の地下鉄サリン事件があった後で、それ程、大袈裟に扱われなかったが、藤沢淳一の名は一時、週刊誌を騒がせていた。静斎の屋敷もその時、週刊誌に載っていた。初めて屋敷に行った時、何となく、どこかで見た事があるような気がしたのは、そのためだった。淳一の写真も載っていたはずだが思い出せなかった。自殺した女優の名もどうしても思い出せなかった。
いつの間にか、音楽は変わっていた。聞いた事のある映画音楽だが、題名は思い出せなかった。
雅彦がやって来て隣に座った。左手にウィスキーのグラス、右手に半分になったタバコを持っていた。
「この曲、何ていう曲だっけ?」
私は彼に聞いた。
彼はウィスキーを一口、飲み、しばらくしてから言った。
「『ミッドナイト・イクスプレス』ですよ。いい曲だな。俺の曲はどうでした?」
「最後の曲はよかったよ」
「『ザ・ラスト・ジャッジマント』だ。あの曲は俺のダチが作ったんです。マイケル・ウォンダーって奴なんだけど、日本人ですよ。さまようミケランジェロだそうだ。本名は知らねえけど自分でそう言っていた。奴はソプラノ・サックスを持って、アメリカをブラブラしてたんだ。一緒に旅をした事もあった。変わった奴だよ。いつも、哲学めえた事ばかり言ってやがった。今頃は南米あたりにいるかもしれねえな」
彼はチビたタバコを親指と人差し指で挟んでフィルターの所まで吸おうとしていたが、途中で諦めて灰皿に押し潰した。
「他の曲はどうでした?」
「『沈黙』もよかった。今、来たとこなんだよ。演奏は毎日、やってるのかい?」
「ええ、最近は毎日、やってますよ。多摩川で吹いてるより、ここで吹いてた方が金になるんでね」
彼は愉快そうに笑った。
バーテンが慣れた手付きでシェーカーを振っていた。
「紀子は見つかったんですか?」と雅彦は聞いた。
「まだ、何の手掛かりもない。ただ、隆二兄さんは見つかったよ」
「彼は何か知ってました?」
「知らなかった。湯沢に行ったかもしれないって言ってたよ。でも、山荘で彼女を見た者はいないんだ。もしかしたら、上原和雄が知ってるかもしれないけど、彼は今、ヨーロッパらしい」
「上原? あのカメラマンの奴ですか?」
私は彼の方を向いてうなづいた。
「知ってるだろう?」
彼は鼻で笑って、ウィスキーを流し込んだ。
「見た事はあるが、話した事はねえな」
「どんな男なんだ?」
「大した男じゃねえ。どこにでもいるようなキザな野郎ですよ」
「キザな野郎か‥‥‥キザな野郎は今、北欧にいるそうだ」
「北欧か、キザなとこにいるな」
彼はウィスキーを飲み干して、空のグラスの底を眺めていた。
「冬の北欧なんて最高じゃねえか。紀子が行きそうなとこだな」
「それじゃあ、二人で一緒に行ったのかな」
私は何となく言った。
「いや、行くとしても奴とは行かねえだろう。行くとしたら一人で行きますよ」
彼は指を鳴らして、空のグラスをカウンターに置いた。バーテンが無表情に寄って来て、彼のグラスにワイルド・ターキーを注いだ。
「いや、紀子は行ってねえ」と雅彦は棚に並んでいるボトルを見つめながら言った。
「日本にいるはずだ。あいつ、パスポートが切れたって言っていた。まだ、更新してねえはずだ」
「本当か、いつ切れたんだ?」
「去年の末です。まだ、切れたままのパスポートが、ハンドバッグに入ってるはずですよ」
「そうか‥‥‥彼女が日本にいる事は間違いないわけだな」
「密出国しなけりゃな」
雅彦はポケットからタバコを出して、私に勧めた。マールボロだった。私は一本、受け取った。彼はマッチで火を点けてくれた。
私はエスプレッソのお代わりをした。雅彦の真似をして指を鳴らそうと思ったが、失敗すると惨めなのでカウンターを軽くたたいた。無表情のバーテンが寄って来て、私を見てニヤッとした。
私の隣に男と女が来て座った。後ろを振り返ると、もう、テーブルはあいていなかった。赤毛のウェイトレスとショートヘアーのウェイトレスが忙しそうに、テーブルの間を走り回っていた。
雅彦はバーボンを満足そうに飲んでいる。
新しいエスプレッソはまだ、来ない。私はマールボロを吸いながら、何げなく、隣のカップルの会話を聞いていた。興味をそそるような話ではなかった。仕事に関する話らしい。
女が男に何か難しい事を説明していた。男はしきりに相槌をしながら聞いているが、話には全然、興味なく、左手をいつ、彼女の腰に回そうか考えているようだった。
「なあ」と雅彦が言った。
「この曲、好きですか?」
私は耳を傾けた。『エデンの東』が流れていた。
「好きだよ」と私は言った。
「この映画、俺は何回も見たよ」と彼は言った。
「ジェームス・ディーンが汽車の屋根の上で丸くなってたな」
彼は目を閉じて音楽に聴きいっていた。
「俺はこの曲をよく吹いたよ。アメリカでな‥‥‥クリスマスの時も吹いていた。寒い夜だった。手がかじかんで言う事をきかなかったよ。みんな、クリスマス・プレゼントを抱えて道を歩いてた。みんな、楽しそうに浮かれて急いで歩いてたよ。俺の曲なんか誰も聞いちゃいなかった。ただ一人、黒人のちっちゃな男の子が俺のそばに座り込んで俺のラッパを聴いていた。真剣な顔をして聴いてたよ。俺が話しかけても何も喋らねえんだ。ただ、じっと座ってるんだよ。俺は彼のためにラッパを吹いていた。そのうち、母親らしい女が来て、子供を無理やり引っ張って行った‥‥‥この曲を聴くと俺はいつも、その子を思い出すんだ‥‥‥また、アメリカに行きたくなってきたよ」
二回目の雅彦の演奏を聴いてから店を出た。
雅彦は最後に『エデンの東』を吹いた。心を込めて吹いていた。いい曲だった。エスプレッソとタバコを飲み過ぎたようだった。喉と胃の調子が悪くなった。
私は赤毛のウェイトレスに手を振ってから店を出た。彼女はニコニコしながら手を振ってくれた。
雅彦の演奏は素晴らしかった。私は満足しながら外に出た。喉と胃の具合は悪かったが、気分の方は最高だった。
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