33.サムシング・エルス [蒼ざめた微笑]
島田友美のアパートは質素だった。しかし、これが当然と言えた。二十五歳のOLが、この東京で贅沢な暮らしができるはずはなかった。
友美は押し入れから、上原から預かったというジュラルミン製のトランクを出して来た。鍵が掛かっていた。
私はポケットからナイフを出して、鍵をこじ開けた。
トランクの中にはB5サイズの茶封筒がぎっしり詰まっていた。それぞれの封筒の上に、名字とイニシャルが小さく書いてある。私は一番上にあった封筒を取って見た。赤い字で清水Rと書いてあった。中の物を出してみると、六枚のプリントとネガが入っていた。
若い娘のヌード写真だった。ヌードというよりポルノ写真だ。トロンとした目付きで左手の親指をしゃぶり、大胆に股を開いて、右手の中指を性器に突っ込んで笑っている。身に付けているのは安物のピアスとペンダント、おもちゃのような腕時計だけだった。アムロのような長い髪、小さくて整ってはいるが白痴のような顔、折れてしまいそうな華奢な体、多分、歌手か女優でも夢見て田舎から出て来た娘だろう。上原にうまく騙されて、酒か薬によって無理やり撮られたものに違いなかった。
友美は嫌そうな顔をしながらも、娘のヌード写真をじっと見ていた。
次に青い字で田村Yと書いてある封筒を見てみた。
中に入っていた写真はポルノ映画のスチールだった。頭が半分はげかかった腹の出ている中年男がベッドの上で、たっぷり髪のある若い女の上に乗っている。男も女もカメラを意識していない。女は虚ろな顔して舌を出し、男は満足そうに女の乳房をなめている。写真は八枚入っていた。男と女は同じで様々に戯れていた。東山のアパートで隠し撮りされたものに違いない。
友美は最初の二枚を見ただけで、後は見ないで私に返した。
「この写真をあなたが持っていては危険です」と私は言った。
「持って行って下さい」と友美は顔をそむけたまま言った。
「忘れる事です、彼の事は。彼はあなたから離れて行ってしまった。あなたとは違う世界に行ってしまったんです」
友美は鏡台の上に置いてある写真を見ていた。そこには彼女と恋人らしい男が写っていた。その男は多分、紀子に出会う前の上原だろう。写真の中の二人は幸せそうだった。
私は島田Tと書いてある封筒を捜し出した。中を見るとヌード写真はなかった。今より若い頃の友美がさわやかに笑っている写真が五枚入っていた。ネガはなかった。私は安心して彼女に見せた。
「京都にいた頃の写真です」と友美は言った。
昔の写真をじっと見ている彼女の目から涙がこぼれ落ちた。彼女は顔をそむけると、ハンカチを出して、涙をそっと拭いた。
「その写真をどうするのですか?」
「今回の事件では、上原さんが東山という男に扮して、ゆすりをやっていたという事は分からないでしょう。この写真は初めからなかった事にするのです。上原さんはカメラマンである上原さんとして死んだのです。私はこの写真を焼き捨てるつもりでいます」
彼女は潤んでいる目で私を見た。
「焼き捨てるんですか?」
私はうなづいた。
「芸能プロの連中も上原さんが亡くなった事を知れば、写真の事は諦めるでしょう。東山にゆすられていた者たちも、彼から何の連絡も来なければ、いやな事は忘れるでしょう。もし、警察が上原さんの事で何かを聞きに来ても、あなたは何も知らないと言って下さい。勿論、あなたはまだ上原さんが亡くなった事も知らないんです。上原さんから何も預からなかったし、東山なんて名前は聞いた事もないんです。彼の事が心配になって私の事務所を訪ねましたが、私から聞いた事は彼が今、ヨーロッパにいるらしいという事だけです。いいですね? 辛いでしょうが、かかわり合いになってはいけません」
彼女はじっと私を見つめてから、うなづいた。
私は上原のトランクを持って、彼女の部屋から出た。しばらくして、部屋の中から彼女のすすり泣く声が聞こえて来た。
上原には勿体ない女だった。これ程まで、上原の事を心配してくれる女がありながら、上原は紀子に心を奪われてしまった。紀子にはその責任はないかも知れないが、美というものは人を狂わせてしまう程の恐ろしい力を持っていた。
私はトランクを持って自分のアパートに帰った。駐車場にスポーツタイプのベンツが止まっていた。ベンツの中にはひろみが乗っていた。
私がジープから降りると、ひろみはベンツから出て来て笑った。
「みんな、どこかに行っちゃった」とひろみは言った。やつれて青白い顔をしていた。
私は彼女を連れて部屋に入った。
私たちは部屋に入るなりキスをした。何も考えなかった。お互いに相手を求めていただけだった。
「あたし、どうしたらいいの?」とひろみは聞いた。
私は彼女を居間に連れて行った。こたつの上には日曜日にひろみが作ってくれた料理の食い残しが、そのまま、置いてあった。
「まあ」とひろみは叫んだ。
「忘れてた」と私は言った。
「次の日の朝、ここを出てから全然、帰ってないんだ」
「冬だからよかったけど夏だったら大変ね」
ひろみはさっさと片付けてくれた。
私は棚からジンのボトルを取って、二つの背の高いグラスに注ぎ、ライムジュースと氷を加えてかき回し、さらに炭酸水を加え、一つを彼女に渡した。
「落ち着く事だ」と私は言った。
「落ち着いてるわ」と彼女はグラスを取ると、こたつに入った。
私も自分のグラスを持つと、こたつに入った。
「どうしたんだ?」と私は聞いた。
「みんな、どっかに行っちゃったのよ」と彼女はまた言った。
「静斎さんは?」
「冬子さんと一緒にビーチハウスよ」
「荒木さんは?」
「古山さんと一緒にどこかに行ったわ。隆二さんは高崎に帰ったし、紀子さんは平野君と一緒に『オフィーリア』に行ったわ。みんながいなくなってから、うちの人、山荘であった事をあたしに話して、自首しに警察に行ったのよ。あたしにはどうしていいのか分からなかった。それで、あなたに電話をしたの。頑張らなくちゃと思ったけど駄目だった。あたし一人だけ、あのうちに取り残されて怖かったわ。警察から電話があるに違いないと思うと怖くていられなかった。気がついたら、ここに来てたの」
ひろみは呆然として手に持ったグラスを見つめていた。わたしは自分のグラスをひろみのグラスに軽く当てた。
ひろみは私を見て笑うとカクテルを飲んだ。
「おいしいわ」
「サムシング・エルスというんだそうだ」
「えっ、何が?」
「このカクテルの名前さ。まだ、外は明るいからね。軽い飲み物がいいと思ってね」
「サムシング・エルス‥‥‥うちの人がよく言ってたわ。何かが足らないって。うまく書けたけど、何かが足らないって‥‥‥」
「紀子さんも言ってたよ。静斎さんも言っていた。マイルス・デイヴィスも言ってたらしい」
「芸術に絶対に必要な『何か』なのね?」
「芸術だけじゃない。生きて行くにも必要な『何か』さ」
「そうね。今のあたしにも必要だわ」
「何杯でもお代わりすればいい」
ひろみは微笑した。その微笑には以前の輝きはなかった。精神的に参っているのを隠す事はできなかった。
「誰もいなくなったのか」と私は言った。
ひろみはうなづいた。
「あのお屋敷はお母さんのうちだったのよ。みんながいなくなってもお母さんは必ず、あのうちにいたわ。お母さんがいたから、あたしも安心していられたの。でも、お母さんがいなくなって、あたし、たった一人であのうちにいられなかった‥‥‥」
ひろみは震えていた。
「でも、君はあそこにいなくちゃ駄目だ」
「分かってるわ」
「これからは君がお母さんの代わりに、あそこの主にならなくちゃならないんだ」
ひろみはうなづいた。
「でも、今日は駄目。とても、一人じゃいられないわ。お願い、今晩はここに泊めて」
私はうなづいた。
「よかった」
ひろみは、ホッとしたような表情をした。笑おうとしたが笑えなかったのかもしれなかった。眉を寄せて、グラスの中の液体をしばらく見つめていた。
「写真を見つけたよ」と私は言った。
「え?」とひろみは顔を上げた。
「上原君に撮られた写真さ」
「嘘? どこで?」
「それは言えない。企業秘密さ」
私は上原のトランクをこたつの上に乗せて開けた。
「これ、全部、彼の写真?」とひろみは一番上の封筒を取って、中を見た。
「まあ、いやらしい」と言いながらも、一枚一枚、熱心に見ていた。
私は中崎Hを捜していた。中崎Hはあった。私はその封筒を抜き取って中を見た。プリントが七枚とネガが入っていた。すべて、ヌード写真だったが、それ程、きわどいものではなかった。ひろみが意識してポーズを取っているのが分かる。得意の微笑をしている。誰もいない浜辺で妖精のように裸で飛び回っている。今よりも二、三年、若い頃の写真らしい。形のいいオッパイが誇らし気に輝き、ウエストも引き締まっていて、豊かな腰にかけて滑らかな曲線が続いている。足は長くスマートで非の打ち所のない体が踊っていた。ヤング向けの雑誌に載せてもおかしくない写真だった。
「いい体だ。俺は君を離したくなくなって来たよ」
「あたしの、見たわね」とひろみは私の手から写真を奪った。
「ネガはどこなの?」
私はネガと封筒を彼女に渡した。
「いい写真だよ」と私は言った。
「まあね」と彼女は笑った。
「でも、あたしの意志で、この写真は発表するの。上原君なんかの勝手にさせないわ‥‥‥もう、いないのね‥‥‥」
彼女は自分の写真とネガをハンドバッグの中にしまった。
私は次にエスエスプロのモデル、吉野ゆかりの写真を見た。テレビのCMで見た事のある顔だった。清純さで売っている十七、八の女の子だった。その彼女が大胆なポーズを取って写っていた。目は酔っ払っているように焦点は合っていない。何がおかしいのか服を脱ぎ散らかしてゲラゲラ笑っている。写真を取られた部屋は東山のアパートのようだった。だが、あの隠し部屋から撮られたものではなかった。彼女はカメラを意識してポーズを取っている。カメラに向かって、思い切り卑猥なポーズを取っていた。こんな写真を撮られたら、エスエスプロの浜田が取り返そうと躍起になるのは当然の事だった。これが公表されれれば、勿論、そのまま、公表される事はありえないが、吉野ゆかりの売れっ子モデルとしての生命は終わりだった。
ひろみも真剣な顔で写真に見入っていた。ひろみが見ているのは中川美喜の写真だった。それはヌードではなかった。美喜とひろみの旦那の淳一が仲良くデートをしている写真だった。
紀子の写真もあった。紀子のヌードかと期待したがヌードは一枚もなかった。二十枚以上あったが皆、紀子が男と一緒にいる所だった。全部、違う場所で違う男と一緒にいるのを隠し撮りされたものだ。平野雅彦と一緒にいる写真もあった。白人や黒人と一緒のもある。背景はアメリカのようだった。上原はアメリカまで行って紀子の隠し撮りをしていたのか、少し、異常のように思えた。
紀子の友達の古山浩子を捜した。尾崎Hであった。今のようなショートヘアーではない。紀子と同じように長い髪を真ん中から分けていた。浩子が下着姿でポーズを取っているのが三枚あった。小柄だがバランスの取れた体をしている。演技か本気か知らないが恥ずかしそうにポーズを取っている。これなら下着の広告写真に使えるだろう。それと、裸でベッドの上に横になっているのが三枚あった。髪の毛を枕一杯に広げて、口を少し開けて目を閉じ、右手を顔の前に置き、左手は腹の上に、片足は軽く曲げていた。本当に眠っている所らしい。三枚共、違ったアングルで撮った彼女の寝姿だった。彼女はこの写真のために怒っていたのだ。
「何を真剣に見てるの?」とひろみが覗いた。
「浩子ちゃんじゃない。やだ、浩子ちゃんも撮られてたの。見せて」
ひろみは私から写真を奪った。
歯医者の高橋の写真もあった。ポルノ写真だった。中年太りの高橋が若い綺麗な女?を抱いていた。高橋の顔は幸せそうだった。涎を垂らしながら若い娘の股座(またぐら)に手を伸ばしていたが、その股座には余計な物が付いていた。異様な写真で、確かに、その写真には五百万円の値打ちがあった。
ひろみは片っ端から写真を封筒から開けて見ていた。こたつの回りはポルノ写真だらけになった。
私の視線に気づくと彼女は、「凄いわね」と言って、あどけない娘が尺八をしている写真を見せた。
私は自殺した森村奈穂子の写真を見ていた。奈穂子が淳一とデートしている所を隠し撮りしたのと、ストッキングを被って浴衣を着た男に抱かれている写真があった。抱かれているというより、薬で眠らされ、無理やり犯されているようだった。どの写真も奈穂子は目を閉じ、ぐったりとしている。ストッキングの男は意識のない奈穂子の体をもてあそび、卑猥なポーズをさせていた。
「これが自殺の原因だな」とひろみに見せた。
「上原君、まだ、こんな写真を持ってたの‥‥‥」
ひろみは写真を見ながら、顔をしかめた。
「まだ、という事は、この写真の事を知ってたのか?」
「えっ? ええ、知ってたわ。上原君から見せられたわ」
「上原はこれで森村奈穂子を脅したのか?」
「そうよ。あたしが知ってるかぎりでは、それが最初よ。その時、うまく行ったんで、彼は東山に扮して恐喝を始めたのよ」
「うまく行った? 相手が自殺してしまったのにうまく行ったのか?」
「そうなんでしょ。自殺する前にたっぷりと金をせしめたんじゃないの」
「この男は上原なのか?」
「さあ、知らないわ。でも、この写真を撮ったのが上原君なんでしょ。そうすれば、違う男なんじゃないの」
「もう一人の男がからんでるのか?」
「そうなるわね」
「森村奈穂子は藤沢淳一と不倫をしていた。その現場を押さえた場合、妻子持ちの淳一をゆするのが普通だ。彼はその頃、芝居が成功して有名になっていた。淳一と奈穂子がホテルから仲よく出て来た写真だけでも、淳一をゆする事はできる。それなのに、わざわざ、こんな写真を撮って奈穂子をゆすったというのはどういうわけなんだ? しかも、ストッキングの男に手伝わせている。奈穂子が淳一以上に金を持っていたとは思えないが」
「そんな事、知らないわよ。上原君が変態だったんじゃないの」
「奈穂子が自殺したと聞いた時、君はうまく行ったと思ったのか?」
「どうして、そんな事、言うの?」
ひろみは悲しそうな目をして私をみつめた。
「いや、すまん。忘れてくれ。上原は死んだ。奈穂子も死んでいる。今さら昔の事を掘り返すのはもうやめよう」
私は台所に行き、二杯目のサムシング・エルスを二つ作って、こたつまで運んだ。
「上原も奴なりにサムシング・エルスを捜してたんだろう。サムシング・エロスだったのかもしれないが」
「真面目な顔して変な冗談言わないでよ。真剣に聞いちゃったじゃない」
ひろみは明るく笑うと、グラスを受け取った。
「腹、減らないか?」と私は聞いた。
「少し」とひろみは言った。
「どこかに食いに行こうか?」
ひろみは首を振った。
「ここにいたいの」
私はうなづいた。
結局、あり合わせの物で、ひろみが料理を作ってくれた。
私たちはその日の長い夜をクリフォード・ブラウンを聴きながら、だんだんとライム・ジュースと炭酸の量が減って、ジンの割合が多くなっていったサムシング・エルスを飲みながら過ごした。
ベッドの中でひろみはすっかり白状した。
「淳一と奈穂子の仲を知った時、あたしは嫉妬に狂ったの。前の年、あたしは流産してしまって、淳一との仲はうまく行ってなかったわ。あたしは絶対に離婚したくなかった。あの素敵なお屋敷から追い出されたくなかったの。もう一度、淳一とよりを戻したかった‥‥‥その頃から、あたしは上原君が、はげだっていうのを知ってたのよ。上原君があのうちに居候してた時、偶然、かつらをはずす所を見ちゃったの。それを種に、あたしは上原君に頼んだのよ。奈穂子を脅して、淳一と別れさせてって。それで、上原君はあの写真を撮ったのよ。あの頃の上原君はおどおどしてたわ。そんな恐ろしい事はできないって断ったわ。でも、はげ頭の事をばらされるのが余程、怖かったのね。上原君はかつらを取って、はげ頭の中年男に扮して奈穂子に近づいたの。熱狂的なファンに扮して、何度も贈り物をしたりして、うまいこと誘って、薬を飲ませて眠らせたのよ」
「その時、君もその場にいたのか?」
「すべてを彼に任せるつもりだったわ。でも、彼、あともう少しでうまく行くという時になって、急に怖じけづいちゃったのよ。仕方ないから、あたしも立ち会ったわ。その頃のあたしはショートヘアーだったの。うまく、男装して運転手に化けたのよ。上原君は大企業の社長に扮して奈穂子に近づいてたから、あたしはそのお抱え運ちゃんに化けたの。車はお父さんのジャガーを借りたわ。車の中で、眠り薬の入ったジュースを飲ませたの。奈穂子はお芝居のお稽古の後で、喉が渇いてたのね。思ってた以上にうまく行ったわ。あたしたちは眠ってる奈穂子をホテルに連れてったわ。そして、服を脱がせて裸の写真を撮ったのよ。上原君にストッキングをかぶせて、奈穂子を犯させたわ。写真を撮ったのはあたしだったのよ」
「その後、奈穂子をどうしたんだ?」
「そのまま、ホテルに置いて来たわ」
「何をされたのか分かるようにか?」
「そうね、裸のまま置いて来たわ。それから後の事は上原君に任せたのよ。しばらくして、淳一は奈穂子と別れたわ。これで、今まで通りの夫婦に戻れると思って、あたしは安心したわ。でも、奈穂子は自殺してしまった。あたしは自分のせいだと自分を責めたわ。淳一も奈穂子から何かを聞いたのか、あたしの事を疑ってるようだった。二人の仲は前以上に冷めてしまったのよ‥‥‥奈穂子が自殺した後、上原君から連絡があって行ってみると、上原君、真っ青な顔してたわ。怖がってたのよ。脅してた事がばれたらどうしようって震えてたの。あたしが、大丈夫よ、もう一月以上も前の事じゃない。自殺には関係ないわよって言ったの。そしたら、上原君、あの後も社長に化けて奈穂子をゆすってたって言うじゃない。お金をゆすっただけでなく、体も要求してたらしいわ。奈穂子が自殺したのは上原君のせいだったのよ。でも、辛かった。あたしのせいじゃないんだと思おうとしたけど駄目だった。淳一との仲ももう元に戻る事はないでしょ。淳一が美喜ちゃんと浮気をしても、あたしは何も言えなかった。上原君が死んで、奈穂子の事を知ってるのは誰もいなくなったわ。ほっとしてたのに、あなたに知られてしまった‥‥‥きっと、神様がバチを当てたのね。うちの人が上原君を殺しちゃったなんて。あたしを苦しめるためにバチを当てたんだわ‥‥‥」
次の日の朝、ひろみは重荷をいくらか降ろしたかのように、強がった微笑を見せて帰って行った。帰る時、私をじっと見つめながら、「さよなら」と言った。
こんな別れにふさわしい気の利いたセリフを言いたかった。いつものように、そんなセリフは浮かんで来なかった。私は黙って手を振った。ベンツは静かに走り去って行った。
ひろみを見送った私はジープに乗って事務所に向かった。何もする気が起きなかった。
藤沢家はこれからが大変だった。夫が殺人者となり、ひろみはスキャンダルの渦の中に巻き込まれる。その覚悟は固めたようだが、耐えられるかどうかは分からない。兄が殺人者となった隆二と紀子は母親を失った悲しみにひたる間もなく、さらに、辛い思いをしなければならない。苦しみ続けて来た静斎も、新しい苦しみに耐え、それを乗り越えなければならなかった。あの屋敷は今頃、うるさいマスコミ連中に取り囲まれているに違いない。もう、私には何もできなかった。私の出る幕はなかった。
私は机の引き出しから、ウィスキーの小瓶を取り出すとラッパ飲みをした。気持ちが落ち着くと、気持ちを切り替えて、上原の残した芸術品、あるいは重要な証拠品を切り刻んだ。ハサミで一枚一枚、悲しい女たちや浮かれた男たちを細かく切り刻んではゴミ箱に捨てた。
あれこれと様々な事を考えながら、写真とネガ、すべてを切り刻むのに丸一日を費やした。私なりの上原に対するレクイエムだった。
トランクのサイドポケットに二十枚のフロッピー・ディスクが入っていた。パソコンに入れて調べると、その中には上原が撮った作品が几帳面に整理されて納まっていた。ゆすりに使ったポルノ写真は勿論の事、風景写真やポートレイト、阪神大震災や地下鉄サリン事件を撮った報道写真まで入っていた。
私は迷った末に、フロッピー・ディスクは保存しておく事にした。きっと、いつの日か、役に立つに違いない。もしかして、カメラマン上原和雄が撮った写真の値打ちが上がった時、あるいは、上原にゆすられていた者が、別の理由で私に助けを求めて来た時、あるいは、内緒でひろみの裸が見たくなった時――フロッピー・ディスクにはプリントしてなかった、もっと大胆なポーズもはっきりと写っていた――あるいは、単なる暇つぶしに各地の風景を眺めるのも悪くはない。
誰も来なかった事務所を閉めようとした時、携帯電話がなった。冬子だった。
「ねえ、おじさん、今、ビーチハウスにいるんだけど、迎えに来てよ。お父さんに置いてかれて独りぼっちなの」
「君のおじさんは今、忙しいんだよ」
「そんな事、言わないで。ねえ、日向さん、お願いよ」
「以後、おじさん呼ばわりをやめれば、迎えに行ってやる」
「やめるわ。もう、二度と言わないから迎えに来て」
「分かった。静斎さんはどこに行ったんだ?」
「ひろみさんから電話があって、うちに帰ったのよ。淳一さんが警察に捕まったとか言ってたけど、何の事なの?」
「俺がそんな事、知っているわけないだろ」
「お父さんから何も言って来ないの?」
「今日は誰も来ないし、誰からも電話もない。俺の事を覚えていたのは君だけさ」
「なんだ。仕事なかったんじゃない。それなら、もっと早く、電話すればよかった」
「そっちに酒はあるのかい?」
「色んなお酒が並んでるわよ。あたしにはよく分かんないけど、高いお酒もあるんじゃないの」
「バランタインの三十年物があったら用意しといてくれ。この前、じっくりと味わえなかったんでね」
「何、それ。よく分かんないわ」
私のジープはビーチハウスに向かっていた。
ようやく寒い冬も終わり、春の気配があちこちに感じられた。しかし、藤沢家に春が来るのは、まだ、ずっと先の事だった。何も知らない冬子もスキャンダルの渦に巻き込まれる。それは、決して、避ける事ができないのだった。
完
コメント 0