06.『赤い風車』にいた歯医者 [蒼ざめた微笑]
オリンピックも終わって、何の変哲もない火曜日だった。
窓の外では霧雨が音もなく降っている。
昨日は一日中、冬子と裕子のお守りをしていた。二日酔いと寝不足で、しけた面して事務所に行くと、すでに二人は待っていた。この間のお礼と言って、五万円も出したため、私は二人を連れて観光巡りをしなければならなくなった。その五万円は裕子が静斎から旅費として貰ったものだが、裕子が受け取らないので、私の所に回って来たと言う。
私としても、あんな仕事で五万も貰えないと言うと、それなら、二人のボディガードをやってくれと言う。これも仕事なのだと割り切り、ケビン・コスナーを気取って二人に付き合った。要するに、おかかえ運転手に雇われたわけだ。
冬子はまったく気まぐれだった。方向など一切考えないで、思いつきだけで、あっちに行け、こっちに行けと命令した。行き先は皆、若者たちによって名所となった所ばかりで、私にはまったく縁のない所だった。集まってくる若者たちは皆、同じような格好をして、仲間外れにならないように、同じ物を捜し求めていた。流行に遅れないように、皆、必死になっていた。
裕子は五時四十四分発の新幹線に乗って青森に帰って行った。私は疲れていた。冬子は元気一杯で、カラオケに行こうと誘った。私にはそんな元気はなかった。断るつもりだったが、冬子は強引だった。私は冬子を連れて、一旦、事務所に戻るとジープを置いて、冬子の馴染みのスナックに出掛けた。冬子の友達に囲まれて、私は久し振りに渋い喉を披露した。女子大生に囲まれて、十歳も若返った気分だった。しかし、それはその時だけだった。彼女らと別れ、寒々としたねぐらに帰って来た時には二十歳も老けたように、ボロボロにくたびれていた。
目の覚めるような仕事の依頼が欲しかった。金を惜しげもなく払う依頼人が欲しかった。うまい酒と、うまい嘘のつける美女に囲まれて、スリルとサスペンスに満ちた命懸けの仕事が欲しかった。
意味のない言葉、あるいは映像が次々に頭の中を横切っては消えて行った。私は何も考えずに頭の中の空想を楽しんでいた。時間だけが確実に過ぎて行った。
突然、電話が鳴り出した。
私はニヤリと笑った。とうとう、私の出番が来たようだ。
受話器から聞こえて来た男の声は、私の期待を裏切っていた。声の主は山崎という貧乏画家だった。十年近く前、私がマドリッドでブラブラしていた時、日本人の溜まり場になっていたバル(飲屋)で彼と出会った。その頃、物価の安いマドリッドには日本人の画家たちがウヨウヨしていた。山崎も私も、その仲間だったわけだ。
山崎は春になったら個展をやるので、今、頑張っていると言う。
「俺の絵も随分、変わりましたよ」と彼は言った。
「ピンクの時代から紫の時代にでもなったのか?」と私は訊いた。
「何を言ってるんです。新表現派ってとこです。ところで、日向さん、藤沢静斎を知ってたんですか?」
「ああ、知ってるよ。面白い爺さんだ‥‥‥お前、誰から聞いた?」
「『赤い風車』の吟遊(ぎんゆう)詩人です。さすが、静斎だ、人間ができてるって言ってましたよ」
「へえ、あの親爺、知ってたのか? 俺は別に紹介なんかしなかったぜ。絵の話だって全然しなかったしな」
「普段は馬鹿な事ばかり言ってるけど、あの親爺、詩人だけあって色々な事を知ってます。こっちが聞かなけりゃ、何も喋らないけどね。もしかしたら、絵もやってたんじゃないですか?」
「かもしれんな」
「静斎とは仕事で知り合ったんですか?」
「いや、静斎とは直接は関係ない。ちょっと、娘と知り合ってな」
「今度、俺にも会わせて下さいよ」
「ああ、今度、飲む時があったら、お前にも声を掛けるよ」
「グラシアス。話は変わるけど、日向さん、藤沢の奴、知ってましたっけ?」
「藤沢?」
「静斎とは関係のない、藤沢隆二です。知ってます?」
「いや、知らんが」
「そうか、やっぱり、日向さんが帰った後だったか‥‥‥」
「そいつも絵画きなのか?」
「ええ、マドリで一緒だった奴なんですけど、奴が昨日、俺んとこに突然、訪ねて来たんですよ。久し振りにスペインの仲間を呼んで、親爺んとこで飲んだんです。日向さんにも電話したんだけど捕まらなかった。仕事だったんですか?」
「まあ、そういう事だ」
「忙しいんですね」
「そうでもねえが」と私は苦笑した。
「奴はすごい絵を描きますよ。そのうち、個展をやるとか言ってましたから、奴の絵を見てやって下さい」
「分かった。その藤沢ってえのは静斎とは関係ねえんだな?」
「ないでしょう。奴から、そんな話は聞いた事もないし、マドリにいた時、奴はかなり金に困ってましたからね。静斎の伜だったら、あんな乞食のような真似をするわけないでしょう。それに、奴の親父は自殺したとか聞いた事がありますよ」
「自殺?」
「ええ、詳しくは知りませんが、仕事がうまく行かなかったとか。親父が自殺して、その後、母親も病死したとか言ってましたよ」
「そうか‥‥‥」
山崎は静斎の芸術の原点を探ってくれと言って電話を切った。
私は藤沢リュージとメモ用紙に書いて、丸印を付けた。山崎の描く絵はまだまだだと思うが、奴の目はなかなか鋭いものがある。奴がそれ程、言うからには、その藤沢リュージという奴の絵はすごいのだろう。一度、見てみたいものだと思った。
十二時になり、飯を食いに行こうとした時だった。きちんとした身なりの小太りで赤ら顔の男が訪ねて来た。消毒の匂いをプンプンさせた、その男は部屋に入って来るなり、
「日向さん、お願いします」と言って、私の手を取った。
私は椅子を勧めて、彼の話を聞いた。
「『赤い風車』のマスターから、あなたの事はお聞きしました」と男は部屋の中を見回しながら言った。
「そうですか、あそこにはよく行くのですか?」
「いえ。最近になって、三度ばかり行っただけです。この前、行った時、日向さんをお見かけして、それで、マスターから日向さんの事を聞いて、ここに来る決心をしたのです」
「この前ですか?」
「はい。日向さんは有名な絵画きさんと御一緒でしたが」
「一昨日(おととい)の晩ですね?」
「はい、そうです」
そう言われれば、あの夜、見たような気もするが、よく覚えてはいない。あの夜は店に行った時から、すでに、かなり酔っていた。一々、回りにいた客の顔まで覚えていなかった。
「で、御用件は?」
「はい。実は‥‥‥」と男は言って、コートを脱ぎ、上着のポケットから名刺入れを出して、一枚、私に渡した。
「私はこういう者ですが、是非、名前は伏せていただきたいのです」
名刺を見ると、その男は高橋真一という近所の歯医者だった。改めて、男を見た。『赤い風車』以外のこの近所で、何回か会った事があるような気がした。
私が名刺から目を上げると、歯医者は身を乗り出して、もう一度、
「私の名は絶対に表に出さないようにお願いします」と言った。
口の中で金歯が光った。
「分かりました」
私は歯医者が抱えているコートを受け取って、ソファーの上に置き、改めて、
「御用件を承りましょう」と言った。
「はい、実は、ある人を捜して欲しいのです。そして、その人から、ある物を奪って欲しいのです」
「奪うと言うのは、盗め、と言う事ですか?」
「まあ、早い話が、そうなりますが‥‥‥盗むと言うよりは、取り戻すと言った方がいいかもしれません」
「話を続けて下さい」
「はい‥‥‥」
歯医者はポケットからハンカチを出すと額の汗を拭いた。
「暑いですか?」と私は聞いた。
「いえ‥‥‥実は、お恥ずかしい事ながら、ゆすられているのです」
歯医者は、そこで言葉を切ると、
「タバコ、よろしいですかな?」と聞いた。
私はうなづいた。
歯医者はポケットから、ラークを出すとくわえて、高級そうなライターで火を点けた。左手の袖口から金時計が覗いた。煙を吐くと落ち着いたのか、話を続けた。
「二年程前の事です。私は酔っ払った勢いで、ある女と一夜を共にしてしまったのです。女の方から誘って来たのです。今、思えば、あんなうまい話はおかしいと思えるんですが、あの時は全然、気づきません。モデルをやってるとかで、いい女でした。私のような者が、あんな女から声を掛けられるなんて、一生に一度しかないだろうと思いました。私はその女の部屋に行き、素晴らしい夜を過ごしました‥‥‥それから、二月程、経った頃でしょうか、見知らぬ男から電話があり、その女の事で話があると言って来ました。信用にかかわる事だというので行ってみますと、あの夜の写真を見せられたのです。私は声が出ませんでした。あの夜、私たちを覗いていた者がいたとは‥‥‥男はその写真を私の家に送ると脅して来ました。それから、毎月のように、その男は金をゆすって来たのです」
「毎月ですか?」
「はい」
歯医者はタバコを消して、首筋をハンカチで拭いた。
「二十三回になります」
「失礼ですが、いくら、ゆすられていたのです?」
「十万です。毎月、十万です」
「今まで、二百三十万ですか?」
「そうなります‥‥‥毎月、十万位でしたらと私も諦めておりました。ところが、昨日、その男から電話があり、写真とネガをすべて返すから、五百万、用意しろと言って来たんです。急に、五百万と言われても、私も困ります。そこで、日向さんに相談しようと思いまして、こうして来たわけです」
「成程‥‥‥五百万ですか。いつまでに用意しろと?」
「二十七日、金曜のお昼までです」
「三日後ですか‥‥‥用意するつもりですか?」
「写真が戻るのなら、それも仕方ないとは思いますが、あの男が、すべてを渡すかどうか信じられません。私としても何枚の写真を撮られたのか分かりませんし、それを確かめる事もできないのです」
「それで、二十七日の昼までに、その男を捜し出し、写真とネガを奪い取って欲しいというのですね?」
「できれば、そう願いたいのです」
「それで、その男について分かってる事は?」
「はい。名前は東山鉄雄といいます」
私は、またか、と思った。忘れかけていた東山という名を、目の前にいる歯医者が思い出させてくれた。
「東山ですか」と私は指を組んだ。
「はい」と歯医者はポケットの中を探り、一枚の写真を取り出して、私に見せた。
はげ頭にサングラスを掛け、口髭を伸ばした男が写っていた。半袖のシャツを着ているところから夏に撮ったものらしい。
「隠し撮りしたものです」
「ほう‥‥‥高橋さんもやりますな」
「いえ、たまたま、待ち合わせの喫茶店のマスターを知っていたもんですから撮ってもらったのです」
「しかし、写真と名前だけでは捜し出す事は難しいですね。連絡先とかは御存じないのですか?」
「はい。いつも、向こうから連絡してきますので」
「毎月、お金を渡していた場所はどこです?」
「喫茶店です。毎回、違う喫茶店でした。共通点と言えば、皆、駅の近くでした」
彼は几帳面にすべての喫茶店をメモしていた。地図を広げて位置を確認したが、それらの喫茶店はバラバラの位置にあり、何の手掛かりにもならなかった。
「敵もなかなか、やりますな」
「それと」と言って、歯医者は地図のページをめくりながら何かを捜していた。
「ここです」と彼はある場所を指で示して私に見せた。
「ここのアパートの一室で写真を撮られたんです」
歯医者は苦々しい顔をして、中野区の地図を見つめていた。
「へえ、よく覚えていましたね?」
「いえ、やっと、捜し出したんです。しかし、怖くて、訪ねる事はできませんでした」
「どんな部屋でした?」
「どんなと言われても、普通の部屋です。ごく普通の部屋でした」
「そうですか。しかし、写真を撮られた場所が分かれば、何とかなるかもしれませんね」
「はい。多分、あの部屋のどこかに、写真とネガが隠してあるに違いないのです。お願いします。それを捜し出して下さい」
「分かりました。やって、みましょう」
「くれぐれも、私の名は出さないように」
「分かってます。それと、女の方ですが、その後、会いましたか?」
「いえ。あの夜以来、会っていません。名前はエミとか言ってましたけど、どうせ、本名じゃないでしょう」
「その女はいくつ位の年でした?」
「十八、九だと思いますが」
「二年前に、十八、九という事ですね?」
「はい」
「そうですか、分かりました」
歯医者は気前よく、三日分の調査費を置いて行き、写真を取り戻してくれたら、充分なお礼をすると言って帰って行った。
私はもう一度、東山の写真を見た。先週の金曜日に来た芸能プロの大男が言っていた東山と同じ男のようだった。奴らは東山を捜し出す事ができたのだろうか‥‥‥
「待てよ」と私は呟いた。
東山は奴らから逃げている。奴らから逃げるために、あの歯医者から五百万を要求したのかもしれない。被害者はあの歯医者だけではないだろう。東山はできるだけの金を集めて、海外に逃げる気なのかもしれない。
私はコートをはおると、さっそく、歯医者が写真を撮られたという現場に向かった。
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