07.可愛い小悪魔に誘われて [蒼ざめた微笑]
どこといった特徴のない二階建ての古いアパートだった。目的の部屋は一階の右から二番目だと歯医者は言っていた。
表札はなかった。ノックをしてみた。返事はない。昼間から部屋にいるとは思っていなかったが、やはり、いなかった。帰って来るまで見張らなければならないのか、とドアの取っ手を回してみると、鍵が掛かっていなかった。
私は回りを見回してからドアを開けて中に入った。
「何だ、こりゃ」と私は思わず言った。
あの歯医者は、ごく普通の部屋だと言った。確かに、前はそうだったのかもしれない。しかし、今は、ごく普通どころではなく、メチャメチャに荒らされていた。
「奴らか?」
奴らの仕業に違いなかった。奴らはモデルから聞き出して、ここを捜し出したに違いない。
何も残っていないとは思ったが、一応、部屋の中を捜してみた。奴らの捜し方は徹底していた。すべての物をひっくり返して捜している。カーペットの下も、ベッドの下も、冷蔵庫の中も、本棚にあった本の間も、隅々まで捜したらしい。散らかっている本を眺めると、推理小説と漫画本が多かった。本の趣味からは、この部屋の主が男なのか女なのかは分からない。部屋の飾り付けからも、どちらとも言えなかった。
ベッドのある寝室には服が散らかっていた。男物も女物もあった。男物は地味な物ばかりで、多分、東山の物だろう。女物に関しては下着だけしか見当たらなかった。その下着もスケスケの物か、小さな布と紐でできている物ばかりで、まともな下着は一つもなかった。
壁に三十センチ四方程の穴があいていた。近くに落ちている額が、そこに飾ってあったのだろう。その額には特殊なミラーが入っていたらしいが、粉々に砕かれていた。私はその壁をたたいてみた。どうも、後から作ったものらしかった。
寝室から出て、壁の裏がどうなっているのか調べた。バスルームの横に、壁の裏に入る小さな扉があった。ペンライトで中を照らしてみると、その細長い隠し部屋の中も荒らされていた。中に入ってみた。壁の穴からは丁度、正面にベッドが見えた。東山はここから写真を撮っていたに違いない。ベッドの上では鼻の下を伸ばした歯医者が若い娘を抱いて、人生最高の一時を過ごしていたのだろう。
部屋中、捜してみたが東山に関する手掛かりになる物は何も見つからなかった。勿論、写真やネガはなかった。それを撮ったカメラさえ見つからなかった。
私は部屋から出ると近くに管理人がいないか捜してみた。そんな者はいなかった。
右隣のドアをノックすると返事がして、ドアが開いた。眠そうな顔をした女がガウンをはおって現れ、私を見ると、
「誰よ、あんた?」と聞いた。
「隣の東山さんを訪ねて来たんですが留守なんです。どこに行ったのか、御存じないでしょうか?」と尋ねたが、返事もせずにドアは閉められた。もう一度、ノックしたら、
「うるさいわね、そんな事、一々知らないわよ」とドアの向こうで言った。
「実は、東山さんの奥さんに頼まれて捜してるんですが、心当たりはありませんか?」
私はいい加減な事を言った。
「知らないって言ってるでしょ。あたしはここに越して来たばかりなの。その東山っていう人と会った事もないわよ」
「そうですか、失礼しました」
左隣に住む人にも聞いてみた。少し耳の遠い話し好きのお婆さんが出て来た。お婆さんは東山を知っていた。
東山は三年程前、隣に越して来たという。雑誌の記者をやっていて昼間はほとんどいない。一時、女と一緒に暮らしていた事もあったが、今は一人で暮らしている。最近は各地の温泉の取材をしていて旅行する事が多く、めったに帰って来ない。きっと、今も、どこかの温泉に行っているのだろうと言った。
最近、誰かが東山を訪ねて来なかったか、怪しい物音を聞かなかったかと聞いたが、お婆さんは知らなかった。
お婆さんに東山の写真を見せると、確かに、そうだと言った。写真を見ながら若いのに可哀想に、三年前はもっと髪の毛があったのにと言った。四十歳位に見えるが、実際はまだ、三十歳位との事だった。
私はお婆さんに肩書のない名刺を渡し、東山が帰って来たら連絡してくれと頼んで、そこから去った。
東山は部屋が荒らされた事を知っているのだろうか、もし、知っているとすれば、ここには戻って来ないだろう。知らなければ、戻って来る可能性はあるが、東山があの大男から逃げているとすれば、ここには来ないかもしれない。
アパートの大家の電話番号をお婆さんから聞いたので掛けてみたが、部屋の借主が東山鉄雄で家賃はきちんと払っているという事しか分からなかった。
私は一旦、事務所に戻り、ジープを置いて、歯医者が東山に金を渡した喫茶店を巡った。
東山の写真を見せて聞き回ったが、何の収穫もなかった。東山は歯医者から金を受け取る時、一度だけ利用したに違いない。他の者からゆする時は、また別の喫茶店を利用したのだろう。都内には有り余る程の喫茶店がある。東山が金を受け取る場所に困る事はなかった。
雨の中、二十三ケ所の喫茶店を回って、何の手掛かりも得られず、事務所に戻って来たのは五時を過ぎていた。途中で、歯医者から携帯に電話が入った。例の物はうまく手に入れたか、と小声で歯医者は聞いた。私は東山の部屋が荒らされていた事と喫茶店巡りの成果を報告して、分かった事は東山の職業が雑誌記者で、年齢が三十前後だという事だけだと言った。歯医者は、誰が部屋を荒らしたのか、写真は無事なのか、と聞いて来た。私は、まだ分からないと答えた。これから、どうやって捜すのかと聞いたので、まず、アパートの荒らしたのが何者なのか捜してみると答えた。歯医者は、絶対に写真は取り戻してくれと言って電話を切った。
珍しく、事務所に私の帰りを待っている者がいた。
冬子だった。襟に毛皮のついた長いコートを着て、狭い待合室のソファーに座り、古い雑誌を見ていた。
「お帰りなさい」と冬子は笑った。
「いつから、いるんだ?」
「五時です。ジープがあるから、いると思ったら、いなかった」
「つまらん仕事だよ」
私は事務所の鍵を開けて、冬子を通した。私は濡れたコートを脱ぐと、机の引き出しに東山の写真と喫茶店のリストをしまった。
「どんなお仕事ですか?」
冬子は机の方にやって来て、私がコートのポケットから放り出した地図を眺めた。
「喫茶店巡りをして、はげ頭の男を捜してたのさ」
「見つかったんですか?」
「いや。君を見つけるようにはいかなかった」
「残念ですね」
私は引き出しから芸能プロの大男の名刺を出すと電話をかけた。
「エスエスプロでございますが」と女の声が言った。その女の声は、この前の声ではなかった。
私は名前を名乗り、大男の浜田を呼んでもらった。いないかもしれないと思ったが、大男は電話に出た。
「東山の事か?」と大男は聞いた。
「そうだ。奴は見つかったのか?」
「おめえには関係ねえだろ?」
「それが関係が出て来た。あの後、俺の所に東山を捜してくれという奴が来た」
「ほう、どんな奴だ?」
「それは言えない。ただ、そいつは二年前から、ゆすられてたそうだ」
「それで、奴を見つけたのか?」
「いや、奴が使ってたアパートに行ってみたが荒らされていた。あれはあんたたちの仕業だろう?」
「知らねえな。そのアパートはどこにあるんだ?」
「中野だ」
「中野か‥‥‥知らねえよ」
「俺の依頼人だが、東山から大金を要求されたらしい。多分、あんたたちから逃げるためだろう」
「ほう、その大金てえのはいくらだ?」
「それも言えない」
「ふん。その大金をいつ、渡すんだ?」
「それも言えんな」
「まあ、いいだろう。金を渡す時、おめえも一緒に行くんだな?」
「いや、その事はまだ頼まれていない。金を渡す前に東山を捜してくれと頼まれただけだ」
「そうか‥‥‥」
「東山はまだ、捕まらんのだな?」
「ああ、捕まらん。捕まえたら、おめえにも知らせてやるよ」
「俺もな」
大男は電話を切った。
大男の話し振りから、東山のアパートを荒らしたのは奴の仕業に間違いないだろう。中野と聞いただけで住所まで聞きはしなかった。そして、奴がまだ、東山を追っているところからみて、あの部屋からは何も見つからなかったに違いない。
「大金て何なの?」と冬子が興味深そうに聞いた。
「すけべ親爺が、君みたいな娘に手を出して、ゆすられてるのさ」
「へえ、いい気味だわ。それで、今、電話した人は?」
「どこかのプロレスラーだ。そいつもゆすられてるんだそうだ」
「そのプロレスラーもすけべなの?」
「すけべの極致だよ」
「これから、どうするんですか?」と冬子が聞いた。
「はあ?」と私は冬子を見た。
「まだ、お仕事、続けるんですか?」
「いや、今日は終わりだ。ところで、爺さんは元気かい?」
「ええ、元気です。今日、みんなが帰って来るんですって。爺さん、いそいそと、うちに帰って行ったわ」
冬子は窓のそばに行って外を眺めた。
「みんなが帰って来たって?」
「ええ、奥さんと息子さんたち。スキーに行ってたの。湯沢に山荘があるんですって」
「豪勢なもんだな」
私はタバコをくわえて火を点けた。
冬子は窓のそばのパソコンが置いてある机に寄り掛かり、コートのポケットに手を突っ込んで私を見ていた。コートの前が開いて、真っ赤なセーターと黒いミニスカートが見えた。細くて長い足は膝から下が黒いブーツで隠されていた。
「奥さんていうのは若いのかい?」
「まさか、息子さんは三十を過ぎてますよ。もう六十はいってるでしょ。若い頃はとても綺麗だったんですって。今でも綺麗よ」
「ふうん。で、息子さんも絵画きなのか?」
「シナリオ・ライターですって。その人の奥さんは元女優なのよ。あたしも前にテレビで見た事あるわ。もう十年近く前だと思うけど、チョー綺麗な人よ」
「へえ、シナリオ・ライターに女優か。画家にピアニストもいる。派手な家族だな」
「そうね。もう一人、息子さんがいるらしいんだけど、あたしは知らないの。七年位前に家出したままなんですって」
「家出?」
「ええ。紀子さんがそう言ってました」
「家出した息子がいたのか‥‥‥その息子の名前は分かるかい?」
「さあ、何だったかしら? 紀子さんから聞いたけど‥‥‥」
冬子は天井を見上げ、記憶を掘り出していた。もしかしたら、山崎が言っていた藤沢リュージが家出した息子ではないかと期待をしたが、冬子は無責任にも、「忘れちゃった」とケロッとして言った。
冬子はこの部屋の中の唯一の装飾品である油絵のそばに行って、しばらく見ていた。
「この絵、誰が描いたんですか?」
「貧乏画家さ」
「あなたのお友達?」
「気に入ったかい?」
「ええ‥‥‥」
彼女は熱心に絵を見つめていた。
「いつか、紹介してよ」
「なぜ?」
「会いたいわ。どんな人かしら?」
「こんな人さ」
「えっ!」と冬子は振り返って、本気で驚いていた。両手を上げて、口を馬鹿みたいに開け、目を丸くして私を見つめた。
「あなたが、これ、描いたの?」
「八年前の俺が描いたのさ」
「知らなかったわ。あなたが絵を描くなんて‥‥‥絵の事に詳しいなとは思ってたけど‥‥‥ほんと、驚いたわ」
「君の知らない事はまだ山ほどあるさ。ただ、絵に関して言えば、今はもう描いていない」
「どうして、やめたんですか?」
「長い長いスランプさ」
「勿体ないなあ」
「ところで、やけに着飾ってるようだけど、これからデートなのか?」
冬子はうなづいた。
「あなたが仕事がなくて、寂しい思いをしてると思って、誘いに来たんです」
「ほう、そいつはありがたいね。また、女子大生と一緒に騒ぐのも悪くない」
「残念でした。今日はあたし一人です」
「なんだ、君だけか」
「あたしだけじゃ不足だっていうの?」
冬子は腰に手を当て、胸を突き出し、色っぽい目付きをして私を見つめた。
私は笑った。彼女が思っている程、色気は発揮できなかった。それでも、可愛い小悪魔には見えた。歯医者の高橋なら、涎(よだれ)を垂らして喜ぶだろう。
「なかなか、うまいじゃないか。俺は腹が減ったよ。とにかく、飯でも食いに行くか?」
冬子は喜んで、うなづいた。
私は冬子と近くのラーメン屋に行った。
食事の後、冬子を連れて東山のアパートまで行ってみた。部屋から明かりはもれていなかった。
冬子をマンションまで送って、別れるつもりだったが、またもや、冬子の誘いに負けて、一緒に飲む事となった。私はジープを我家の駐車場に入れ、冬子を連れて『赤い風車』に行った。
山崎がいたら藤沢リュージの事を聞こうと思ったが山崎はいなかった。親爺に歯医者の高橋の事を聞くと、その高橋が昨夜、一人でやって来て、私の事を色々、聞いて行ったと言う。宣伝してやったよ、と親爺は笑った。
私は冬子と一緒に酒を飲みながら、冬子の芸術論を聞いていた。彼女は人物画が得意で、好きな画家はモディリアニ、パリのモンパルナスに行くのが夢だと言う。今度、私の肖像画を描こうと思っていると言った。なぜか、私は彼女に好かれているらしい。しかし、彼女は若すぎた。年が一回りも離れている。確かに彼女は可愛くて魅力的だが、今の所、彼女をどうこうしようという気にはならなかった。
十二時過ぎ、冬子をタクシーに乗せ、私はフラフラしながら家に帰った。
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